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Kids Smiling

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目次
三、ラオス、ヤオ族の村で 四、ラオス、メオ族の事件
五、生活習慣が変わる 六、里親就学援助

Building a school 寺子屋建設風景・・・。

村はずれの森から木を伐採して寺子屋の柱とします。屋根は水草の一種で水をはじき返す性質を持った草が選ばれます。2メートルぐらいに成長した草を半分に折り曲げ真中に竹を入れ編みこみます。この屋根でどんな雨にも耐え、水が漏ることはありません。

この村に滞在して一ヶ月が過ぎる頃、村のこども2〜3人が私を迎えに来た。どこに連れて行かれるのか分からないが、散歩を楽しむような気持ちで付いて行くと一軒の壊れかけた家の中に招じ入れられた。家の中は薄暗く、はっきり見えない、しばらく目を凝らしていると、


三、 ラオス ヤオ族の村で・・・(トップ)

1991年の事,ビエンチャンからランプラバンに向かって6時間ほど北上を続けると山間の村カシーに到着する。そこから徒歩で村はずれを1時間ぐらい北上し、左側の山に向かって山道を歩むと、2時間ほどでヤオ族の村が見えてくる。静かな山間に点在するようにバナナの葉で葺いた屋根や、茅葺で葺いた屋根が見えてくる。朝早く起きると、村全体を朝霧が包み込んでいる。山間に、静かにたたずむ村には、人を和ませてくれる安らぎを感じる。

家の中に横たわっている5人のこどもと、母親らしき人の姿が見えてきた。横たわったまま動こうとしない。一緒にきていたこども達が声をかけても、答える元気が無いようだった。どうも全員病気らしい、母親のほうに顔を向け、手を合わせて挨拶しながらしずかに声をかけた。「どうなさったのですか? 身体の具合が悪いのですか? こども達もですか?」しばらく私のほうを見つめていた母親は、訴えるような目を向け、弱々しげな聞き取りにくい声で話しかけてきた。「薬があれば、分けてもらえないかね・・・こども達の具合が悪いので・・・」見たところ、こどもばかりではなく、母親のほうも相当悪そうだった。私は、どう返事をして良いのか分からず、こどもと母親の様態をゆっくり看はじめた。寝ている子供のそばにより額に手を当ててみると熱が高い。悪寒のためか体が小刻みに震えている。どうも感染症のようで手を出す事が出来ない。どうしたら良いか? 薬を買ってこようか? お金を上げようか? 自分では決心がつかない・・・。「少し待ってくださいね! 村長に相談してきますから・・・。」と、声をかけ、この家を後にすると急ぎ足で村長の家に向かった。心の中ではなんとしてでも助けてあげたかった。そのために必要なら、金も出すつもりでいた。医者が必要なら、カシーの村まで戻りお医者さんを連れてこようと決心しながら、村長の家に向かった。

村長の家は山の中腹にありひときわ目立った大きな家だ。この家には三世代が住んでおり家の中庭は村落会議も開かれる大きな広場になっている。家に着くと、村長に今日のいきさつを話し「薬を買ってあげたいが良いだろうか?」と、相談する。村長はいつもと同じように、表情を変えることも無く、静かに言った。「何もしないで下さい」私は納得がいかず追いすがるように、まるで村長を無慈悲な人として責めるように強く言った。「なぜ! 薬をあげてはいけないのですか!」「医者を呼んできていいですか?」村長は後でゆっくり話しましょう、と、言ったまま黙ってしまった。「そ、それじゃ手遅れになるかもしれない、早くしないと死んでしまう、何を悠長な事を言っているのか?」と、心の中で叫んでいた。

その夜、長老達が村長の家に集まり今日の出来事を話し合った。その話し合いの内容を私に説明してくれた。「私達村の人々には弱い人を助ける力はありません、そんなことをすれば村全体が崩壊してしまいます」「強い人が生き残り弱い人は死んでいく。これは自然の摂理です。人はだれでも遅かれ早かれ死んでいきます。人それぞれ、その時期が違うだけです。死は、全ての人に訪れるごくあたりまえの出来事です。」「私達ヤオ族は先祖代々この山の村で暮らしてきました。この村には約百家族が住んでいます。昔から同じです。自然は厳しく体の弱い人は死んでいきます。」「もし、弱い人も生き残り死ななくなったら、村の人口が増え、他の村人達も生きていけなくなります。この山に住めるのは約百家族だけなのです。 山の神様が与えてくれた山の果物、野菜、動物、魚、全てが足りなくなってしまいます。」「私達人間もこの山の自然の一部なのです。人間だけが我が儘をして自然の摂理を変えてはいけないのです。」「それでも村人が増えた時は、村分けを行い、若い家族達が何組か新しい山を探します。まだ人の住んでいない山を見つけるとそこで新たな村を開きます。運が悪いとそのまま住む山もなく全滅する事もあります。全ては山の神様の導き次第です。」「私達ヤオ族は高い山の上に神様が居られると信じ山の生活を続けています。全ては山の神様のお心次第です。」「それでも私達村人は努力しています。親族同士の婚姻が続くと弱い子ができるので、別の山の村数村が年一回集まってお祭りをします。その時若者達が自分の結婚相手を他の村から探し結婚します。」静かに、親切な心の篭もった説明を受けた後、私には何も言う言葉が無かった。人と自然とを一体として受け取る考え方に感動すら覚えた。人道主義を貫き、人命の尊さを訴えてみても、はじまらない。私達日本での生活や考え方とは、だいぶん次元が違うように思えた。

病を抱えた母親とこども達を何とかしてあげたいと思ったが、なすすべもなく一ヶ月が過ぎる頃から、一人亡くなり、二人亡くなりと、1ヶ月半あまりの中で全員亡くなって行った。その家族の住んでいた家は村人達の手で燃やされ跡形もなくなってしまった。私は、ボランティアでこの村に入り、何をしていたのだろうか? 私に何ができるのだろうか?もし、人命の尊さを叫ぶ医療団体がこの山の村に入り込み、診療所をつくり医療援助活動を続けて行ったら、この村はどうなるのだろう・・・。援助活動を続け、亡くなって行く人々の命を助け始めたら、この村の人口は増えつづけ、村人達ひとりひとりの負担が大きくのしかかり大変な事になる。村の生活を脅かし自然を壊す事が援助になるだろうか? それがボランティア???


四、ラオス メオ族の事件(トップ) 

衣料品やお菓子を持ってボランティアにやって来た中国人三人が、メオ族の村に入ったまま帰らないという事件が発生した。この事件は、同じラオスに住む親しい中国人の友人から聞いた話だが、本当の事件だと思える。村では、何の前触れもなく見慣れない人達が来たので、その人たちを取り囲むように遠巻きに見ていた。しかし、何の娯楽もニュースも無い山の中、次第に好奇心に駆られた人たちが近くに集まってきた。この中国人達は、持ってきた衣料品やお菓子を、近寄ってくる人々に手当たり次第配りはじめた。まだ見た事も無い色彩のきれいな衣料品や、珍しいお菓子に、村人やこども達は浮かれた。それぞれ贈り物を受け取った人々は突然授かった『物』に夢中となり、互いに身に付けたり、見せ合い、それぞれ受け取った『物』の自慢をし合っていたが・・・・。しばらくするとあちらこちらで取り合い、奪い合う光景が見られた。贈り物を持ってきた人々は、言葉は分からないが、何やらののしりあい奪い合う人々の姿を見ながら『物』が有る事を誇らしげに自己満足に浸っていた。この人達三人は、村人達の勧めでその日は村に泊まったが、翌日は山を降りて帰っていった。

三人が帰っていった直後、村人たちの間で起きた事件。妬みや、争いについて、村長、長老、村人達で、村人会議が開かれた。今まで、なに不自由無く暮らしていた村人達は、彼ら中国人がきたことで、仲間を妬み、兄弟を誹り、村人同士で奪い合った。近くに居た人たちはもらえたが、みんなの前に出て来るのが恥ずかしく遠くで見ていた人や、村を留守していた人たちはもらえなかった。もらった人たちの中でも、不平不満が起き、村全体に不公平感が満ち今までになかった問題が起きていた。村の秩序はガタガタに崩れてしまい、村長や長老達は頭を痛めた。主だった村人達も頭を寄せ合い話し合っていたが、解決策が見つからない。気を良くして帰っていった人たちは、今回の味を占め、また再び来るだろう・・・もう来ないようにするにはどうしたら良いだろう・・・そのたびに問題が起こっては大変だ! 村人達の話し合いで・・・「もう二度と来てもらいたくない!」と、言う結果になり、村の若者数人が彼ら中国人を追いかけ、三人とも殺害してしまった。もう二度と来ないようにするためには、彼らを殺す以外、何の方法も考えられなかったようだ。自分勝手な自己満足ボランティアが招いた悲惨な結果となってしまった。

事件の後を振り返ってみると、幾つかの反省点が指摘できる。『物』があることが豊かで、『物』がないことは貧しい事だと思っている人たちの押し付け援助。本当の豊かさとは・・・・貧しい人達の事を本気で考え援助を申し出るなら、最初に村長、長老、村人達に相談すべきであったろう、持ってきた『物』を提供するのにも、自分達で配分するのではなく、村の自治に任せるべきだったのだろう。でも、それでは持ってきた人たちが楽しくない。自分達が楽しむためには自分達で好き勝手に配ったほうが楽しいのに決まっている。もしそんな気持ちで『物』を配るなら、受けるべき当然の報いだったとも思える。


五、生活習慣が変わる(トップ)

ビエンチャンからランプラバンに向かって4時間ほど北上を続けると、風光明媚な村バンビェンに到着する。インドシナ三国 ( ラオス,ベトナム,カンボジア ) がフランスの植民地であった頃、アジアのスイスとしてもてはやされ、ラオスを訪れるフランス人の避暑地として喜ばれていた。夏でも涼しく、小川が流れ、険しい岩山が迫り、草原では牛が草を食み、静かな流れの中では水牛が水浴びをしている。朝早く起きると朝霧が村全体をおおい幻想的な世界を演出する。自然と村と人が一体となったと思える村。

この村に来るきっかけとなったのは、ビエンチャンで出会った警察官との出会いがはじまり。この警官とは親しい友達となり、何度か食事をともにした。また、ラオスの国や自分の将来の事などを話し合っていたが、彼が田舎の親に会いに行く時、その村へ連れて行っていただいた。そうして、この村にしばらく滞在するうち、その村から山道を10キロ登ったところにメオ族の村があることを知る事となった。私は深く興味を持ち、メオ族の村に行きたいと希望すると、「一人ではムリだ!」と、宣言された。「知らない山での一人歩き、どんな危険が待ち受けているかもしれない?」と言われるとますます行きたくなる。でも、彼も警察官、友人を危険なところに送り出すのは出来ないようだ。行きたい気持ちを抑えながら数日を過ごすうちに友人の警察官が耳寄りな話を持ってきた。

1970年代、ラオス内戦によって難民となり、アメリカに逃げたメオ族の人が20年ぶりに山に帰るらしい、彼に付いて行けば良い、と言って紹介してくれた。会ってみると、見るからに垢抜けした風貌で、同じメオ族の血を受けた人とはとても思えなかった。彼は村に帰るについて、アメリカ生活20年の間に手に入れた『物』全てを捨て去った。アメリカで得た最先端の『文明』も、全てをふもとの村に置き去り山に向かった。ちょうどその時期は雨季だったので、村につくまで三本の川を超えなければならなかった。友人が「一人ではムリだ!」 と言った訳がようやく分かってきた。荷物をぬらさないようにするため、一人がロープを持って川を泳いで渡り、対岸の大きな木にロープを巻き付ける。こちら側の丈夫な木にもロープを結び、カバンや荷物は、そのロープを伝ってぬれないように運ぶ。荷物を渡し終えると人の番、ロープに捕まりながら引っ張ってもらう。同じ事を三度も繰り返しながら6時間かけてようやく目指すメオ族の村に着いた。私の足は真っ赤にはれ上がり、地を踏む事が出来ない。村に着き、案内された場所に座り込むと、もう一歩も動けない。ズボンも靴もびしょ濡れで、足のかかとあたりが靴擦れを起こし皮膚が擦り切れ血が出ている。靴を脱ぎ、はだしになるとやっと人心地ついた。村人数人が私を取り囲んでいたが、私は、ただ笑顔を向けるだけで、一歩も動けない。真っ赤に晴れ上がった私の足を見ていた人が、お湯にふやかしたような薬草を大量に持ってきて、私の足に貼り付け、その薬草の外側を乾いた葉っぱで巻きつけてくれた。その日から毎日何回も薬草の交換と張替えをしてくれる。私達が村に着いたその夜は大宴会、村人総出で大騒ぎしている。大きな豚をみんなで追いかけ捕まえると、咽喉を切り裂き、豚の血を抜き取った。どす黒い重そうな色をたたえた液体はどうするのだろう・・・。別の人たちの手で、血を抜き取られた豚の解体作業がはじまった。赤身の肉も、脂肪も、内蔵も、腸も、心臓も、きれいに取り除かれ、大きな葉っぱの上に置かれている。腸の中身はふんだんな水を使い絞り出すように洗い流された後、先端を結ばれ、ひき肉と香辛料、野菜のようなものを一緒にみじん切りした物体を5センチ間隔に押し込められ、紐で結ばれる。また更に肉を詰め込められ、まるでウインナーソウセージのようなものが出来上がった。今度はこども達が出来上がったソウセージの長い物体を木の枝に掛けて干している。豚は見る見るうちに解体され顔だけ原型のまま残されていた。先ほどの血は固められ血の豆腐のようなものが出来上がった。

夜になるとアメリカ帰りのメオ族の人と私を真中にはさみ大宴会が始まった。その日から賓客としての毎日が始まった。一緒に帰ってきたアメリカ帰りの人はどこから見てもメオ族の人、昨日までの風貌は脱ぎ捨て現地人になりきっている。便利な『物』を捨て、文明を捨て去って帰ってきた彼は、生き生きと楽しそうに過ごしている。私もみんなの仲間になりたくて努力していたが村の人たちとどことなく違う? 

このころはラオスでの生活にもなれ、昼寝の習慣がついていた。この日も一時ごろから昼寝をはじめ、お昼の三時ごろ目覚めた。全身に汗をびっしょりかいていたので汗を流そうと、村に二ヶ所ある水汲み場に出かけて行った。でも、そこには先客が居た。若い女性が三人洗濯しながら上半身裸で水浴びをしている。近くまで行きかけたが、その姿を見ると、悪い事をしているような気持ちになり、引き返してきた。その日から数日たつと村の習慣が変わり、変化している事に気がついた。「私が村に住みだした事で生活習慣が変わって来ているようだ!」男女とも上半身裸で生活していたのに私が来てから上着を着るようになってきた。水浴びの時でも胸の上まで布を巻くようになってきた。むらしから村に住んでいる人には平気かもしれないが、日本で育った私には若い女性の裸は刺激が強すぎ、そのたびに顔を伏せたり、よそ見をしたりしてごまかしていた。そのことに気がついた村人の女性達は、私に遠慮して肌を隠すようになったようだ。私がいる事で、むらしから続いていた生活習慣が変わるなら、私はここに居ないほうが良い、と思い、村を離れる決心をした。

ボランティアで外国に住み、何気なく振舞っていても生まれ育った国の文化を振りまいている。善悪の基準や常識は、それぞれの国で違っている。私達の持っているハカリで相手を計ってはいけない。同じ1、と言っても、1インチもあれば、1センチもあり1寸もある。それぞれの国の生活習慣を認識しなければボランティア活動はやってはいけない。


六、里親就学援助(トップ)

タイの農村部で貧困のため学校にいけないこども達の就学援助をしている時の事。毎年日本から里親支援者が訪れ、支援を受けているこども達にセレモニーを設け、その場で奨学金を手渡していた。 この学校の生徒数は310名だが、その内の一割近くの生徒30名が支援を受けており、この日も全生徒が集まる校庭で支援金を受け取る事になっていた。しかし、その当日支援を受けている生徒から、「御願いがあります。」と、言って呼びとめられた。「奨学金を受けたくありません!」と、私に伝えてきた。「なぜ?」と聞くと・・・「恥ずかしい」と答えが返ってきた。私はさらに尋ねた。「わけを話してくれないかな・・・」彼は思いつめた表情を見せながら「ぼく、支援金を受けるのは3年目だけれど、もうこんなに恥ずかしい思いをするのはゴメンだ! 1年に一度みんなの前で「おまえの家は貧乏だ!」と宣言されているようなものだから・・・」と、答えてくれた。

私は不安な気持ちでセレモニーをこなし、日本からの支援者を送り出した後、援助を受けている生徒全員に尋ねてみた。するとひとりひとり程度の差こそあれ30人全員同じ気持ちでいる事が分かってきた。援助を受けている人たちを惨めな気持ちにさせるのが援助だろうか?援助を受けている人たちの心を大切にし、喜んでもらえるような支援が出来ないものだろうか?


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