2002年11月号
カンボジアこどもの家

(エイズ弧児 スライ・リアップちゃん)


『カンボジアこどもの家』
活動現状報告

寺子屋』寺子屋13校  教師72名  生徒3,113名
※00/00 = 生徒数/女子数※
学校名/学年
1
2
3
4
5
6
合計
ツール・ボンロー 48/23 76/28 40/26 42/18 * * 206/95
オルセイ・ルウ 243/45 135/76 74/31 34/13 38/18 56/23 580/206
オルセイ・クラオム 96/38 78/37 20/6 20/10 * * 215/91
オルセイ・カンダ−ル 75/32 25/8 * * * * 97/40
オーニエン 220/110 58/25 49/24 29/14 * * 356/173
プレイコップ 175/72 79/32 43/23 26/9 24/7 * 347/143
ツール・プラサート 135/58 62/32 29/17 28/12 * * 254/119
サンタピアップ 131/66 69/29 37/16 17/8 26/8 * 280/127
アピワット 174/86 43/25 31/18 * * * 248/129
ダムナックツマイ 32/15 35/18 23/11 * * * 90/44
高田記念学校 53/35 33/17 23/12 * * * 109/64
アンサラー 90/45 35/17 42/20 * * * 167/82
トムノックダイ 112/40 25/10 27/15 * * * 164/65
合計 1581 753 438 197 88 56 3113

カンボジアの学校は7月で終わり10月の初めから新学期が始まります。

10月新学期を迎えますと新しい一年生が入学してきますので生徒数4,000名を越えそうです。新たな先生の補充も必要となり、嬉しい悲鳴をあげています。

『孤児の支援』

キャンプ場3名、オルセイ・カンダ−ル3名、シソポン2名、クラッチェ1名、カンダ−ル5名、ボォレ−オ4名、合計18名となりました。

8月、新たにエイズ孤児3名をあずかりました。エイズで亡くなったお母さんのこどもが合計4名となりました。

『難民支援』

新鮮で衛生的な『水』の確保のため井戸工事をしています。13ヶ所の工事を行ない7ヵ所から新鮮な水が湧き出ています。


5月6月日本各地でカンボジア報告会をもちました。

1、相手と同じ目線でみる。

2、相手の立場にたってかんがえる。

この言葉はボランティア活動の標語のようになっていましたが、あえて全面否定いたします。ボランティア活動はして上げることではない。一緒に考え、その人たちがしようとしている事を、ほんの少しお手伝いする事。


※広島国際大学での講演※

今回講演させていただきました場所は北海道旭川、群馬県沼田市、埼玉県川越市、東京都、神奈川県横浜市、奈良県五条市、滋賀県、大阪府、兵庫県西宮市、赤穂市、広島県、各地からお招きいただき本当にありがとうございました。

心から感謝いたします。合計5千人以上の人々に聞いていただきました。


『カンボジアこどもの家』スタッフ紹介

ロング・チョムルアン氏 54歳C.C.HOME代表。カンボジア東北部の町クラッチェの生まれ。青年時ソビエトに国費留学生として学び帰国後政府の役人として働いていたが汚職を嫌い国際N.G.Oケアーの職員となる。
パン・チャンナッ婦人。ロング・チョムルアン氏の奥さん。7児の母47歳 孤児の支援責任者。1997年クラッチェで開設した孤児の支援『カンボジアこどもの家』の責任を一手に担い孤児養育を進めている。
この家族との出会いが、カンボジアでの支援を支えている。
最良のパートナーに出会えて、カンボジア支援に希望と夢を託す。


キャンプ場及び寮長紹介


2000年開設以来300人以上のお客さんがスタディーツァーやボランティアで来られました。みなさんも是非、カンボジアのド田舎にお出でください。

寮長高橋健二郎

たかはしけんじろう酉年生まれ。33歳神奈川県中郡二宮町出身。現在、会社を休職してCCHOMEに居候中。キャンプ場の寮長として日本人ボランティアの受け入れと井戸工事の責任者。


特集・・・・・エイズ孤児


エイズで亡くなったお母さんの家のとこども

『カンボジアこどもの家』では8月に入って3名のエイズ孤児をお世話する事になりました。いずれも母親がエイズで亡くなり孤児となった子供たちです。

4歳になる男の子に出会ったのはシソポンにあるモンゴルボレー病院。この病院の通路に寝かされている患者さんが居た。病人を物のように扱っている病院に首をかしげながら関係者に話を聞いてみるとおどろくような話を平然としている。

「この患者さんはエイズ患者の末期症状があらわれ自分ではトイレに行けないため垂れ流し状態、糞尿の後始末が簡単なセメント通路に寝かせている。」との事。その隣で、小さな男の子が甲斐甲斐しくお母さんの世話を焼いている姿は痛々しく見ているのが辛い。私が近づいていくと病人のお母さんが不審な顔をして見つめている。私はゆっくり話しかけた。

「私たちは孤児のお世話をしています。」

病人のお母さんは私たちを見つめるようにして言った。
「お願いです!この子を連れて行ってください!わたしには身寄りがありません、両親も兄弟姉妹も居ません天涯孤独です。」
「この子を・・・連れて行ってください!』
目に涙をいっぱい溜め、渾身の力をふりしぼり訴えてくる。
病院関係者にお母さんの家庭事情をお聞きしました。
『この病人は身寄りが無いと言っていますが両親がバッタンバンに居ます。父親の話では、病人が若いときから親の言うことを聞かず、遊びまわったあげ
 くエイズに感染した。」

との事、その後何度連絡をとっても面会にも来ません。

8月30日母親はしぼむように亡くなりました。後に残された4歳になる男の子の引取り人も現れません。遺体を荼毘(火葬)に付した後、残されたこどもを『カンボジアこどもの家』に引き取ってきました。

その1週間前にも同じ病院で亡くなったエイズのお母さん。12歳の女の子が息も絶え絶えのお母さんの世話をし、痛みが少しでも和らぐように身体をさすりつづけていた。その甲斐もむなしくお母さんは帰らぬ人となってしまった。

 ちょうど私が病院を訪れた22日の朝に亡くなり、すぐに遺体を火葬場に運び荼毘に付しました。火葬費用も支払う事が出来ず、帰る家もありません。病院を出て行く子供の服は着たきりの擦り切れた服一着だけ、靴もありません。このお母さんには3人のこどもが居ますが、病気で入院しますと1番上の12歳になるお姉さんがお母さんの世話をし、まん中のこどもはシソポンの孤児院に引き取られていきました。1番下の8歳になる男の子はお母さんの実のお姉さんに引き取られていました。お母さんが亡くなった後、残された12歳の女の子を連れてお姉さんの家を尋ねました。お姉さんが12歳と8歳のこどもを養育する事が決まり『カンボジアこどもの家』で大人になるまでの養育費を負担する事となりました。

 カンボジアのエイズ孤児は、お父さんがエイズに感染し続いて母親に感染し両親共に亡くなりエイズ孤児となるケースが増えています。エイズが家庭の中まで入り込みその家庭を破壊していきます。

 またエイズに感染しますと家族全員から嫌われ捨てられていきます。エイズが発病し死を迎えるようになっても家族からの連絡すらなくなります。エイズ患者は孤独と心細さとの戦いとなり残されていく子供のことばかり案じて過ごします。

--6月の花嫁--

 近くの村の結婚式に行った。

数日前に花嫁の兄貴から招待状をもらっていた。花嫁もその兄貴も学校の先生をしているので顔見知りではある。

 ポイペットの結婚式はレストランですることもあるが、殆どが自宅で行う。自宅の庭にでかいテントを張る。形は日本にある学校の運動会などで活躍する、あれと同じである。"寄贈 **小学校PTA"なんてのは書いていない。さすがにおめでたい場にそれはない。ただ、おめでたいだけにテントはカラフルである。赤・青・緑・黄の縞模様になっていてかなり遠くからでもすぐに結婚式をしている場所がわかる。

 結婚式当日、昼近くになってその結婚式会場の村に向かった。村の家は小さい藁の家ばかりでその日も?色とりどりカラフルテント?は遠くから良く見えた。

 入れ替わり立ち代わりお客さんが来て飯食ってお祝いの一言でも新郎新婦に声を掛けてご祝儀を親族か誰かに渡したらそのまま帰る。結婚式といっても招待客にはあっさりしている。身内になれば歌って踊って朝まで続く事もあるみたいだが。彼らの結婚式はお偉いさんの長ったらしいスピーチも無く、キャンドルサービスやケーキ入刀など日本でお決まりのパターンはもちろん無い。招待客が食事をしている時は新郎新婦や親族、友人などはお客さんの食事を運んだり、ビールを注いでまわり、お客さんのコップに氷を入れたり裏方に徹することになる。

新郎新婦はビールを注いでまわりながらも何度もお色直しをする。その回数は日本の披露宴を軽く超える。お色直しをする度に新婦は怪しい化粧や衣装を身にまとう。派手な化粧は花嫁だけでなく?親族や友人の女性達にも言える事で?人によっては顔だけ見ると?ひょっとして魔術でも使えるの?と聞きたくなるような怪しく妖艶な化粧になる人もいる?特に花嫁は派手な化粧と衣装でだれだかわからなくなる?花嫁の付けまつ毛は鉛筆が乗りそうなくらい長く?そのまつ毛にラメが入っていて目をちょっと伏せるとキラキラ光っていた?耳元あたりのほつれ髪はくるくると意味無くカールさせていて怪しい化粧を引き立てている。衣装の方は、アジア系のお金持ち奥様のパーティードレスというか、30年前のジュディ¥オングかフィリピンのイメルダ夫人かといったいでたちで登場する。ネックレスはもちろんガラス玉だが、もし本物のダイアモンドだったらカンボジアの国ごと買えてしまえるんじゃないかと思うくらいキラキラじゃらじゃらしていて例えるなら“想像のつかないくらいお金持ちの犬の首輪”みたいだ。さらに、ティアラをつけた花嫁の姿を見ると、あんた王族にでも嫁ぐの?と聞きたくなる。まあ、一生に一度お姫様気分を味わえるのはこの時だけだろうから、これでもか!とやたらめったらに派手にするが?よく考えれば花嫁のこの一日に賭ける意気込みは日本も大して変わらないかもしれない。

 村に向けられたラッパ型のスピーカーからは酔っ払ったオヤジのカラオケが潰れた音で流されていた。

雨季に入ったが"お日柄も良く"、乾いた空にオヤジの歌声が良く鳴り響いた。

私は皆に勧められるままに氷入りの薄くなったビールをガブガブ飲んでいた。空になった空き缶を地面に放る。と、どこからか近所の子ども達が何人か集まって来て空き缶の奪い合いをする。招待客が食事をしているテントの脇で指をくわえながらじっとこちらを窺っている。もちろん食事をしている料理にも興味はあるが、彼らのねらいは空き缶だった。空き缶をゴミ屋に出せば2缶で1バーツ(約3.3円)で売れる。1バーツあれば充分にお菓子が買える金額だ。大量のビールの空き缶が捨てられる結婚式は近所の子供達の格好の小遣い稼ぎになる。家を出るとき、一緒に住んでいる子供達に空き缶をもらって来るように頼まれたが、結婚式に行って近所の子供達と一緒に空き缶拾ってくるのはさすがにみっともないと思ったので断った。

 私と同じテーブルに座った人達の話が全て理解出来なかったので私は飲み食いに専念していた。

ちなみにその時のメニューは、

 ピーナッツの炒め物
 唐辛子の漬け物入りソーセージ
 カニカマボコ
 ハム
 青パパイヤのサラダ(タイやカンボジア料理の定番)
 鶏肉とピーマンの蒸し焼き
たぶん、ここまでが前菜。

 半生牛肉とキャベツ,ニンジンそれに香菜の和え物(サラダ風)
 すずめ又は小鳥のから揚げ
 鶏の丸蒸し焼き

 チャーハン
 タイ風スープ(トムヤンクン)

 デザート(佐藤たっぷりのココナッツゼリーのようなもの)

でした。あー食った、食った


ポイペットの医療事情


※ポイペットのこども※

 カンボジアでは貧乏人は医者に診てもらえない。お金が無ければ診察すらしてもらえない。カンボジア全土で医者のいる地域に住んでいる人々は50%に過ぎずその中でお金が少しでもあり医者に見てもらえる人はそのうちの50%。

 ここポイペットには75,000人の人々が住んでいるが病院は無い!イヤ病院はある。でも医者がいない、一年前にオープンした病院は1度も患者が訪れるのを見た事が無い。先月新たな病院が開院したがお金が高く訪れる人はいない。

 先日連続して亡くなっていったこどもは治療さえ受けられれば治る病気だった。ツール・プラサートの寺子屋先生の子どもは二歳だった。可愛い盛りに亡くなっていった。こどもの熱が高くなり食べたものまで吐き出し、ぐったりとしてしまっているこどもを抱え母親は村の診療所(無資格の医師)に連れて行ったが病名さえ分からない。何とかこどもを助けたい一心で都会の病院に運び込んだか゛・・・。

 この親子は診察さえ受ける事が出来ず病院の入り口で追い出されてしまった。貧困ゆえに、医者にも診てもらうことも出来ずこども失っていく親の気持ちは現代日本に住んでいる私たちには理解できない事だろうと思える。


1ドル支援・・・ 120 円支援・・・

カンボジアは30年に渡る長い内戦が終わり、ようやく立ち上がろうとしています。でも、多くの村ではいまだに学校がありません。こども達が学校に通いたくても学校も無く、先生もいません。

『カンボジアこどもの家』では、ひとりでも多くのこどもが学校に通えるように願い、村人たちと協力しながら『寺子屋』を開設しています。現在3.500名のこどもたちが、13校の『寺子屋』に通ってきています。ひとりのこどもが1ヶ月学校に通う費用は1ドルです。

 奈良県五條市の牧野小学校6年生のみなさんが自主的にカンパを行ない37.000円のお金が集まりました。こどもたちの熱い思いをカンボジアのこども達にも伝えたいと願い、オルセイ・ルウ小学校6年生30名の1年間支援を始めました。